2012年1月3日火曜日

「絆」よりも「連帯」へ


先に、「絆」が叫ばれることへの疑問について書いたが、同様に絆連呼への違和感について、精神科医の斉藤環氏が昨年12月の毎日新聞に書いている。

「絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだこれを仮に「絆バイアス」と名付けよう。
 絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。たとえ社会やシステムに不満があっても、「社会とはそういうものだ」という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。そう、私には絆という言葉が、どうしようもない社会を前提とした自衛ネットワークにしか思えないのだ。
 それは現場で黙々と復興にいそしむ人々を強力に支えるだろう。しかし社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない。」

まさに、責任と原因を正しく追及することもなく、「仕方がない、耐えて耐えてがんばろう」という諦めをともなった叫び、あるいは真実から目をそらすためのプロパガンダに思えてならない。

3.11以後、日本人のモラルの高さを賞賛する記事があふれた。外国メディアも暴動も起こさず、礼儀正しくふるまう震災後の日本人の姿を賞賛していると紹介され、多くの日本人がそれを誇りに思っていると。

しかし、どんな理不尽なふるまいを受けても、耐えて耐えて何もしないことが、モラルの高さの証明になるのだろうか?
日本人のモラルが本当に高いのなら、この国で起きている以下のことは、どのように証明されるというのだろうか?

・一向に減らない弱者を食い物にする「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」
・OECD平均をはるかに上回る相対的貧困率16%(2010年調査)=同胞の多くが所得が少なくても平気でいられる態度
・先進国でも類い稀な「逆進的」といえる所得再分配制度=課税前よりも課税後の方が、格差が拡大
・過酷な派遣労働と過労死を招く正社員労働=労働権を無視した、労働者を物と同様に扱う労働環境
・ホームレスに対する社会の忌避感
・母子家庭の貧困率50%超(OECD加盟国中トップ!)=未だに両親+子の家族感から抜けられない労働家族感の画一性=社会的マイノリティーへの冷たさ

これらの問題から見えてくるのは、この国には「皆、同じように働いて、同じような家庭を持てば、そこそこ幸せになれるはずだ」という画一的労働・家族感であり、高度成長期に幸運にも、それなりに達成された「一億総中流」意識から抜けられない姿であると思う。しかし、この「一億総中流」は、経済拡大という成長過程で偶然にも得られた産物に過ぎないのであり、日本人が意識して「すべての人の豊かさと幸せ」を願った結果ではないし、制度そのものが、それを志向していたわけでもない。

成長過程の止まった今、いつまでも経済成長の夢を見るのではなく、全体でそれなりの豊かさを共有し、分配していくための社会つくりが求められるのではないか? そのため必要なのは、「絆」ではなく、社会的「連帯」の精神だ。

先に引用した記事の中で、斉藤環氏はこうも言っている。
「なかでも最大の問題は「弱者保護」である。絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが「家族の絆」にゆだねられてしまいかねない点だ。」

なんでもかんでも政府任せにするのがよいとは言わないが、この国の制度を、明治以来の「働かざるもの食うべからず」から、「働きたい人は働いた分だけ」「働けない人、働きたくない人も、それなりに幸せに」暮らせる社会のための制度に変えていかなければならない。そして、そのためには、家族的、強制的ニュアンスの強い「絆」ではなく、より広範な人々を社会的にゆるやかに結びつける「連帯」の精神が必要だ。欧米諸国、とくにヨーロッパの国々は、日本よりもはるかに、この「連帯」の精神が生きているように思う。

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